直江津の偉人

直江津の偉人

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※五十音順

直江津出身の人物

川合直次(かわいなおじ)1874~1938

川合直次は、直江津河端町(現在の荒川町)出身の政治家。
14歳で家業(材木商・廻船問屋)を継ぐ傍らで歴史研究や文学に勤しんだが、周囲の人々の強い推薦で政治家となる。26歳で群会議員、次いで県会議員、衆議院議員を経て、1924年に高田市からの強い要請で高田市長となる。市長として、自らの市長年俸などを減額、税金の軽減、学校の建設・整備、区画整理、現在も続く観桜会や謙信公祭の設置など、数々の功績を残した。

小林百哺(こばやしひゃっぽ)1804~1887

小林百哺は、上越市小猿屋出身の和算家。
8歳のころ両親を失い、直江津(寄町・現在の本町)の髪結屋の養子となる。算術・学問に優れ、「牙籌堂(げちゅうどう)」と言う塾を開き、子どもたちに学問を教えた。後に高田藩砲術指南となり、数々の功により苗字帯刀を許された。有名な言論弾圧事件である「蛮社の獄」の際、知人であった大肝煎・福永七兵衛と共に江戸の蘭学者・高野長英をかくまったという逸話がある。

千代垣素直(ちよがきすなお)不明~1835

千代垣素直は、江戸時代の直江津の狂歌師。
父の影響で狂歌を始め、非凡な才能を開花させる。江戸の狂歌師・篶垣真葛(すずがき・まくず)に師事し将来を嘱望されたが、20代の若さでこの世を去った。近年になり、五智国分寺に素直の狂歌が掘られた石碑が発見され、復元された。

福永十三郎(ふくながじゅうざぶろう)1721~1774

福永十三郎は、江戸中期の人物で直江津の豪商福永家(越前屋)の7代目。福永家は、高田藩御用達でもあった。
当時の高田藩では、直江津港に水揚げされた魚類も高田城下の問屋を通さずには販売できず、十三郎は高田奉行所へ自由販売を願い出たが、なかなか聞き入れられなかった。
しかし十三郎はあきらめず、幕府への出訴や問屋との訴訟に尽力し、十数年の歳月を経て評定所の裁定により直江津港水揚げ量の2割の販売の自由と干物などの加工品の解禁を勝ち取った。その後も販売権をめぐって奔走したが、係争中にこの世を去った。
現在、出身の福永町にある福永神社にて祀られている。

古川長四郎(ふるかわちょうしろう)1895~1949

古川長四郎は、直江津の本砂山町(現在の中央4丁目)の廻船問屋に生まれた。
父の死後、佐渡商船株式会社の第4代目社長に就任、その後直江津港の発展のために県会議員に立候補、最高得票で当選した。1932年(昭和7年)に佐渡汽船株式会社を設立、初代社長となった。
1942年(昭和17年)に周囲の嘱望もあり直江津町長に就任、隣県や中央政界・財界に働きかけ、直江津港修築工事期成同盟会の結成に成功したが、戦争により実現できなかった。直江津港の発展に尽くした長四郎だが、惜しまれながら引退、54歳で生涯を閉じた。

直江津ゆかりの人物

上杉謙信(うえすぎけんしん)1530~1578

上杉謙信は、戦国時代の武将、戦国大名。
内乱が多かった越後を平定し、諸大名と対等以上に渡り合い、「越後の虎」「軍神」などと評された。
信心深く、越後国分寺の再興や居多神社府中八幡宮十念寺(浜善光寺)・至徳寺といった神社仏閣を庇護した。また、当時の迎賓館などにあたる御館を造営したとされる。戦時期には現在の郷津から直江津海岸にかけて、水軍も準備されたという。

小川未明(おがわみめい)1882~1961

小川未明は、上越市高田出身の小説家・児童文学作家。「日本のアンデルセン」と呼ばれる。
直江津の船見公園にある人魚像は、未明の代表作のひとつでもある「赤い蝋燭と人魚」にちなんだものである。

ジェームス・ダン(じぇーむす・だん)

ジェームス・ダンは、音楽家。
父のエドウィン・ダン(インターナショナル石油会社支配人)と1900年(明治33年)に直江津に移住し、少年時代に現在の直江津小学校に在学した。兄はネッド・ダン、弟はジョン・ダン。
音楽家となった後、1931年(昭和6年)直江津小学校の校歌を作曲した。また、ジェームスが寄贈した「ベヒシュタイン」のピアノが今でも同校に残されている。

親鸞(しんらん)1173~1262

親鸞は、鎌倉時代の日本の僧。浄土真宗を開いた。1207年、後鳥羽上皇による「承元の法難」で弟子とともに流罪となり、直江津の地に上陸する。1214年まで越後各地で布教を行った後、京に戻った。
居多神社につたわる「越後七不思議」のひとつ「片葉の芦(あし)」は、親鸞が念じたところ一夜にして境内の芦が片葉になったという。

林芙美子(はやしふみこ)1903~1951

林芙美子は、日本の小説家。森光子の舞台作品としても知られる「放浪記」で有名。直江津にも訪れ、作中で安寿と厨子王丸の供養塔なども紹介している。
直江津駅前にある記念碑に、放浪記を長年演じた森光子直筆の色紙を元にした「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」という文章が刻まれている。この詩は芙美子が生前に好み、色紙などに残したもの。

堀秀治(ほりひではる)1576~1606

堀秀治は、戦国時代~江戸時代の武将で越後福嶋藩の初代大名。
上杉景勝が山形へ移封されたのち春日山城主となる。後に現在の直江津港から保倉川にかかる一帯に福島城の築城を始めるが、完成の前に死去。福島城は、家督を継いだ堀忠俊の代に完成した。

松尾芭蕉(まつおばしょう)1644~1694

松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳人。1689年から弟子の曾良と共に旅に出た「奥の細道」で有名。
その年の7月に直江津に立ち寄り、「文月や 六日も常の夜には似ず」という句を詠んだ。関川河口近くの琴平神社に、芭蕉の句碑が建てられている。

源義経(みなもとのよしつね)1159~118

源義経は平安時代末期の武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異父弟。
平治の乱により父が敗死し、預けられた鞍馬寺から奥州まで武蔵坊弁慶とともに逃げ落ち、その後頼朝の配下として壇ノ浦の戦いなどで平家に勝利するなど活躍した。
奥州への逃避行にて直江津の観音寺に立ち寄った際、追ってから逃れるために池に鎧兜を投げ捨てたという伝説がある。池は現在も「兜池」として残っている。

森鴎外(もりおうがい)1862~1922

森鴎外は、明治・大正期の小説家で、医学博士を持つ軍医、官僚などといった経歴を持つ。
代表作のひとつ「山椒大夫」は、説経節のひとつで越後直江津の応化の橋も舞台となった「さんせう太夫」の安寿と厨子王丸の物語が原話となっている。

与謝野晶子(よさのあきこ)1878~1942

与謝野晶子は、日本の作家・詩人。夫は与謝野鉄幹(よさのてっかん)。歌集「みだれ髪」で有名。
佐渡への旅行の際に直江津に立ち寄り、「落日が枕にしたる横雲の なまめかしけれ直江津の海」という歌を残している。船見公園にその句碑が建てられている。