地区連日記

御館橋&御館の乱(/ロ゜)/

2013/09/06

皆さん今回は御館橋の由来でもある御館の乱について話をしたいと思います
 
上杉謙信が没すると、後継者を巡って景虎と景勝の間で争いが起こりますが、まず機敏な動きをしたのが、景勝でした。
 
景勝は、謙信が没して2日後に、春日山城の本丸を占拠し、三万両もあったと言われる金蔵と兵器蔵を押さえます。
 
莫大な軍資金を手中に収めた景勝は、景虎のいる二の丸に向かって攻撃を開始します。
 
そして、自分こそ謙信の後継者であるという御触を出します。

 
この迅速な行動の裏には、直江兼続の戦略があります。
 
彼は、景虎の背後にいる北条家と武田家を考慮し、彼らが景虎の援軍として越後に来る前に決着をつけないと景勝の負けであるということを十分理解していました。 だから、先制攻撃でなければなりませんでした。
 
その後、景勝軍と景虎軍が本格的に武力衝突します。
 
これを受けて、景虎は春日山城を出て、御館(おたて)と呼ばれる前関東管領・上杉憲政の居城に立てこもります。

 
春日山城の景勝と御館の景虎の間で争いが続きますが、1579年、ついに景虎が景勝に追い詰められ、自害するに至ります。
 
景勝の勝因は、景虎の援軍を軍資金を使って巧みに押さえ、迅速に行動した兼続の戦略の勝利と言えます。
 
その後、景虎軍の残党を退け、1581年に北条城の攻略に成功し、御館の乱と呼ばれた内乱がようやく終わりを告げます。
 
景勝はこれで謙信の後継者として越後の大名となります。
 

兼続は、この戦功以後、景勝の重臣としての地位を確立していきます。
 
皆さん御館橋を渡りながら歴史を思い出すのは如何でしょうか 
 
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